伊達家を出奔した伊達成実の「自負心」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第82回
■成実の華々しい功績
成実は伊達家の重臣として数多くの武功を残しています。1585年の人取橋の戦いでは佐竹・芦名連合軍による追撃に対し、わずか500の兵力で時間を稼ぎ、敗軍の政宗を逃がすことに成功しています。
翌年の郡山合戦では片倉景綱(かたくらかげつな)と共に、寡兵で伊達領南部の戦線を維持し、勝利に貢献しています。
1589年の芦名家との摺上原の戦いでも三番手として従軍すると、劣勢を覆す活躍をみせています。この時の勝利によって伊達家は会津地方を手に入れ、南奥州のほとんどを支配下におきました。
しかし、豊臣政権による奥州仕置で会津を没収され、その後の葛西大崎一揆への関与の疑いにより、さらに減転封されます。この時、葛西・大崎30万石を与えられたものの、本領の伊達郡など44万石相当の領地を没収されてしまいました。
それに巻き込まれる形で家臣団も減封の上、一揆で荒廃した地域へ知行(ちぎょう)替えされることになります。
そして、1595年の秀次事件の後、成実は突如として伊達家を出奔します。このころ、伊達家から数名の出奔者が出ており、その多くが所領に関する不満が原因だったようです。詳細は不明ながら、成実にも同様の不満があったと言われています。
成実の所領であった角田城の接収にあたっては、成実の家臣団が抵抗し30名ほどが討死しています。
■上杉景勝の誘いを断る「自負心」
政宗の下で武功を挙げてきた成実は諸侯からも高く評価されていました。関ヶ原の戦いにおいて、上杉景勝(うえすぎかげかつ)から5万石で誘われています。
しかし、成実はこれを身分違いだと拒否しています。父実元が越後上杉家の養子となる予定であった事や、その際に上杉家の家紋「竹に雀」を譲られていた事を誇りに思っていたためと言われています。
また、徳川家康からも勧誘を受けていたようですが、こちらは政宗による奉公構(主君が家臣に対して、将来的に他の主君に仕えることを禁じた刑罰)によって破談しています。最終的には、伊達家の元同僚たちの仲介により伊達家に帰参し、関ヶ原の戦いでの白石城攻めに加わり、上杉家と戦っています。
その後の成実は、復帰前と同様に、大坂の陣への従軍や最上家改易による城の接収などで軍事的な貢献をしています。その一方で、自領の発展に務めるようになります。新田開発などの効果により、貫高は倍増しています。
そして、1638年には3代将軍家光(いえみつ)の御前にて、御簾越しではあったものの、人取橋の戦いに関する軍談を語る機会を得ています。長く功績を積み上げてきた成実の「自負心」が満たされた瞬間だと思われます。
■トラブルを招く強い「自負心」
成実は伊達家の一門衆として、数々の戦で軍功を挙げ、毛虫の前立てに相応しい活躍をしてきました。
しかし、度重なる減転封などもあり「自負心」は満たされなかったようで、突然の出奔に繋がったと思われます。
現代でも、組織への貢献に対する「自負心」が強すぎて、現状への不満から対立や退職に繋がる事は多々あります。
もし「自負心」を培うほどの貢献がなければ、伊達家はあれほどの勢力を維持できていなかったかもしれません。
ちなみに、維新後に北海道に渡り、伊達市の基礎を作ったのが亘理伊達家14代当主邦成です。
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